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【悲報】 俺が日本語学習者にとっての歩く辞書になりつつある

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悲しい論題ですね。

 

 

 

世の中、もしくはある特定のところで需要のある言語母語としている人たちの大半が持っている悩みなのではないでしょうか。(という感想を持っています。)

 

 

 

ベトナムあるあるでもなんでもなく、まぁ結構よくある話で、聞いたこともあるかもしれないんですけど、要は、言語を学びたいからという理由で近づいてくる人たちって案外いるんですよ。

もちろんそうでない人もいますけどね。

 

これって冷静に考えて、失礼すぎるというか、モラル的にどうなのって感じがします。

 

僕はベトナムに来て約5カ月になりますから、ベトナム人の友達も結構できています。もちろん日本語を教えに来ているわけですから、僕と何かしらの関係を築く人たちの大半はもちろん日本語を学びたいという生徒たちばかりです。

 

それで授業中に質問するとか、授業内でわからなかったところを質問する分には全然良いんですよ。それが僕の仕事ですし、お金を払ってもらっていますから。

 

でもそうじゃなくて、プライベートの時にまで日本語を教えてほしいという人も少なくはないです。

これに関して嘆いているのは僕の心が狭いからですかね?(笑)

 

よく日本語学習者から連絡が来たりするんですけど、だいたい「私は日本語が苦手ですから、いろいろ教えてください」って言ってくる人は大体僕を辞書と思っている人だと思っています。

 

そして現にそういう人は今でも連絡が来るときはいつでも日本語の質問です。

 

 

普通に考えて僕自身には興味がないということにならないですかね?

日本語を話す人ならかくほーさんではなくてもいいわけです。誰でもいい。

 

 

ほんとにかくほーさんではなくて誰でもいいと思っているならそれはそれで人として終わってると思ってるし、そういうつもりがなかったとしても、そう感じ取られるという事まで想像できないという時点でやっぱり終わってます。

 

 

気持ちはわからんでもないですよ。でも相手の気持ちを考えてみるべきだと思いますね。ベトナムに限ったことではないですよもちろん。

 

現にそうでない日本語学習者で友達になっている人もいっぱいます。そういう人とは今でも何回も飲みに行っているし、会話の内容もお互いのことを知ろうとする会話に自然となりますからね。

 

その中でわからない日本語があったり、間違った日本語があった時には指摘することはありますけど、それは全然いいんですよ。コミュニケーションってそういうもんですからね。

伝えたいものがあるから会話する。理解しようとするために相手の話を聞く。

 

 

そもそも外国語を学習するのってのは(文献を読むためとかコミュニケーション以外の部分もありますけど)少なくとも会話の能力を学習するのであれば、その言語を使って人とのつながりを広めていく手段としてですよね?

 

なのに外国語を学習するために外国人と話すというのは全然手段も目的もずれていると思うんですけどね(笑)

 

 

 

と、こんな愚痴ばかり言っても何も始まりませんし、そういう人間が減らない訳でもありません。

なのでどうして辞書扱いになってしまうのかを、考えてみました。

 

 

 

 

 

1、かくほーさんが嫌い

 

 

なんかボロクソ偉そうなことを言いましたけど、そもそも論、僕のことを知りたいとか思う前に、生理的に無理と思われている場合があるかもしれません(笑)

 

もし嫌いなら、僕が傷つこうが、野垂れ死のうが、デング熱にかかろうが、彼等には知ったこっちゃないですから、辞書として扱っても何の問題もないという論理かもしれません。

 

これは、、どうしよう(笑)対策がわからない(笑)

嫌われてしまうのはしょうがないので、辞書扱いされた後の対応を考えた方がよさそうですね。もうお金払ってもらうとか(笑)

お金払ってくれるならいくらでも日本語教えてあげますけど(笑)

 

 

 

 

2、そういう文化である

 

これを文化と言ってしまうと、今回の話題にしているような人ではない人に怒られそうですね。実際に言語学習のために近寄ってくる人は確かに少数派だと思いますしね。

 

なので文化と言うのは語弊がありますね。文化と言うか、こういう行動をしてしまう価値観や考え方が根付いている人がいるということですかね。 

 

この話を長年東南アジア圏で日本語を教えていらっしゃる人に聞いてみたんですよ。

 

その人は、そんなことは考えたことはないけど、ある時韓国で教師をしていた時、全く実際に会ったことがない、ネット上などのオンライン教育をしていた生徒から、婚約を申し込まれたことがあるという、とても面白そうな体験談を話していました。(笑)

 

この話から思ったことは、彼らにとっての結婚事情とか、人間関係の構築に関しての考え方が僕とはそもそも違うということもあるのかもしれないということです。

 

つまり友達も結婚相手も友達になるのも、自分にとっての実質的な利益が最優先されるという感じですかね。何を持って「利益」とするのかは議論する余地はあると思いますけど、この考えで行くと、ほしいものが手に入る時にしかその人と交流しないということになるんではないですかね。

つまり、日本語を教えてくれるときは友達でいるけど、そのほかの分野の話では友達ではなくなるという事になりませんか?

結婚も同じで、利益が得られなくなったら切るということになると思うんですけど。

 

友達ってそうじゃないと思うんですけど、説明できないから僕のただの感情論ですねハイ 。

 

 

 

 

3、僕が優しすぎる

 

糞ナルシストなことを言ってすいません。嫌いにならないでくださいね。

優しいというか甘いんですよね結局。

 

こうやって辞書扱いされて心がしんどい、毎日夜泣きしている。とは言っているものの(言ってないけど)なんだかんだ質問されたり、利用されに来ても答えを教えちゃうんですよね。

 

それに甘えて学習者さんが僕みたいな質問コーナー受付のリピーターになってしまっているんですよ。ダメ人間にしているのは僕のせいかもしれません。僕は教師には向いていませんね。父親にもなれないと思います。

 

 

 

4、答えは聞くものだと思っている。

 

これはまた現地の人から反論されるかもしれないからあんまり大きな声で言えないけど、結局は答えは作るものではなく知るものだと思ってる人が少なからずいるんじゃないのかなと思うんですよね。

つまりとりあえず知識だけ膨大に摘もうと思っている人。考えるということがクセになっていない人ですね。これはもちろんどの国にもいるだろうし、僕もその一人だと思うので偉そうなことは言えませんけど、人に聞かずに自分で答えを出すように考えてみてくださいって話です。

 

教育論とか学習論の話になりそうだからまた別の記事でいつか機会があれば書きたいです。

 

 

 

 

5、僕は実は汎用人型日本語電子辞書だった

 

僕自身は、人間だと思っていたんですけど、僕がロボットではないと証明するものは持っていないので、この可能性は完全には否定できません。

自分のことは自分が一番知らないという言葉もありますからね(ない)

 

そして僕に質問してきている人は僕を汎用人型日本語電子辞書と見抜いているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁこんな感じかなと思いましたけど、なんか書いているうちに、こんなことで愚痴っている僕の心が狭いだけかなとか思えてきました。わざわざこの気持ちを理解してもらうまででもない気がしますしね(笑)