みんな金曜ロードショーの時をかける少女を見てたんでしょう?
先日、2018年7月20日金曜日は、ロードショーで時をかける少女が放送されていました。ツイッターなど、僕の周りでも少なからず、時をかける少女の話題が多かったです。
僕も見たかったのですが、あいにく家にはTVというアイテムが存在しないために、金曜ロードショーで見ることはできませんでした。
しかし僕はこの作品がとても好きで、(というか細田守監督の映画は基本的に好きで)どの作品も何回も見ているから、内容は知っているし、今回見れなかったからと言って、電車が通る車線に身を乗り出すほどのショックではありません。
でも金曜ロードショーのおかげで周りでは時をかける少女を見ていた人であふれかえっているくらいなのでこれに便乗して時かけに関する記事を書いてみようかと思いました。
これはネタバレにもなるかもしれないので、時をかける少女を見たことがない人は、この先を読まないでください。というか時をかける少女を見たことがない人がいないとは思いますが、もし見たことがないという場合は、控えめに言って人生の3分の8は損しているので今すぐ見ましょう。
さて、時をかける少女ですが、みなさんこの作品を見て何を感じ取りましたか?
えぇ、老若男女の諸君。ただ面白かった、素晴らしい映画だ、感動した。ではだめなんですよ。
男性諸君、真琴の入浴シーンの露出度が少ないとか、真琴の妹がかわいすぎるだろとか、そんなところに目を付けて見ている場合じゃないすよ!!!
女性諸君、最後の真琴と千昭の別れのシーンに憧れて、そのシーンだけキュンキュンして名シーンとか言ってる場合じゃないですよ!!!
そこには何の思想もありません。
この作品では何をメッセージとして伝えようとしてるんだろうと、視聴者に考えてほしいと細田守監督もそう思っていると思います。
なのでこの映画を見てどんなことを伝えているんだろうかという、個人的な僕なりの意見を書いていこうかなと思います。暇なんで。
個人的な考えですから、正しいわけではありませんよ。
1、真琴はポンコツ高校生
この作品にあるメッセージ的なものは何かという話をする前提として、主人公はどんな人物像なのかを説明します。
今回タイムリープの能力を得て時をかけるようになる少女、真琴はポンコツな高校生です。
真琴がポンコツというよりは、基本的に高校生はポンコツな生き物であり、その代表としての主人公が真琴ということにしておきましょう。
彼女は朝は寝坊する、数学のテストは6点、進路なんて全く考えておらず、この高校生時代の今を楽しむためだけに生きています。調理実習では火事寸前になるような事故を起こし、最終的にはブレーキの壊れた自転車に乗って死にかけます。
これに加えてもっとポンコツと思えるのが、清々しいほどの自己肯定。
寝坊したのもたまたま、別に頭も悪くない、失敗もそんなにしないし、あの時こうすればよかった、みたいな後から後悔するような失敗も滅多にしない。と自分を高く評価しています。
今回の数学のテストとか、調理実習のミスなんて、たまたまなだけで、本当に自分の力はこんなもんではないという始末。
ポンコツでしょう?
まるで昔の高校生時代の自分のようです。高校生という生き物は、自分の欠点を認めず、かといって実際には何も行動せず、でも実際本気を出したらなんでもどうにかできる能力があると信じて疑わない生き物ですからね。
まぁ現実には社会人になってもそういう人がいらっしゃいますけどね。
そんな真琴は、あるときタイムリープが出来るようになります。簡単に言うと、過去や未来に時空を超えて飛べるようになるわけです。厳密には時間を戻しているわけではないんですか、まぁ時間を戻したり進めたりできるような能力です。
これからまた真琴のポンコツぶりを発揮。
このタイムリープをしょうもないことに使い始めます。時間を戻せますから、もちろん数学のテストは満点、模試の点数も高得点を取り、進路は留学とか言い出します。
ちょっとしたミスも、時間を戻せばなかったことにできます。
高校生レベルの頭脳では、こんなに素晴らしい能力を持ってしても、上手く使いこなせないんでしょう。
これは真琴にとってだけではなく、現実の高校生にも言えるでしょう。自己肯定感が強く、怖いものなしみたいな。自分はやればできる、けどやらない。みたいなね。
そうやって現実から目をそむけたくなる時期なんですよ、高校生って。という前提がこの作品の世界観では描かれていると思います。
2、千昭もポンコツ
千昭は、未来から来た人間です。未来では過去や未来を自由に行き来できる道具が開発されたらしく、千昭はこれを使って真琴が住んでいる時代にタイムリープしてきたという設定です。
しかしポンコツだから、そのタイムリープするための道具をうっかり理科室に落としてしまいます。それを真琴に使われてしまうというわけです。
千昭はこの年代にある一つの絵を見るためにこの時代にタイムリープされるんですが、この世界で知り合った真琴のような同級生との日常が楽しすぎて未来に帰らずこの世界にとどまってしまいます。
彼も、未来から来た人間といえど、年齢は高校生くらいですから、やはりポンコツです。しかも時間を自由に行き来できる道具が開発されたことによってそのポンコツ具合に拍車がかかります。
彼はこの時代にある曲をカラオケで熱唱しているんですが、その歌詞の中にある、
"Time waits no for one"
という歌詞に疑問を持ちます。
理科室の黒板に
「( ゚Д゚)ハァ?」とツッコんでいます。
直訳は「時は誰も待たない」という感じなんですが、時を自由に行き来できる千昭にとってはこの意味を理解できません。
真琴と同じく、時を自由に行き来できることで、時間の大切さやその不可逆性が故の、今を生きる時間と向き合う大切さを理解できないんですね。ポンコツです。
3、タイムリープを手にしてポンコツな自分に気が付く
タイムリープをしょうもないことに使いまくってる真琴ですが、この能力を好き勝手使う事で他人が不幸な思いをしていることに気が付き始めます。
一番それを痛感する出来事は、千昭からの告白です。
千昭から告白された真琴は、今まで友達として仲が良かった関係から男女の恋愛的な関係になってしまう現実から目を背け、タイムリープを使って千昭からの告白をなかったことにしてしまいます。そして後から自分のポンコツ具合に気が付きます。
これはさすがにクソすぎるでしょう。全国の千昭ファンの女性は一人残らず、真琴に殺意を抱いたでしょう。
これだけがきっかけではないですけど、タイムリープを好き勝手使っていくうちに、時間とは二度と戻ってこないもので、その大切な時間を無駄に過ごしてはいけないということに徐々に気が付くようになるわけです。
これをきっかけに真琴はポンコツを卒業するわけです。
実際にその心意気がうかがえるシーンが僕にはあると思っていて、それは二人の別れのシーンです。
物語の流れとしては、千昭はタームリープ先の時代の人間にタイムリープしていることを知られてはいけないのですが、真琴に知られてしまうので、この世界を去らなければいけなくなり、二人は別れることになります。
最後の別れの言葉として千昭は真琴に、「未来で待ってる」といいます。
その返事として、真琴は
「すぐ行く、走って行く」というわけなんです。
僕はこの「走って」という言葉にずっと違和感があったんですよ。この映画は今から12年前くらいの作品で僕が初めて見た時は13歳(僕にも中学生の時代くらいあります)だったんですが、なんかここのことば、すっきりしないなと思ってたんですね。
今の僕の思想を述べれば、この走っていくというのは、真琴が将来に向かって前向きに、能動的に、未来へ向かっていくようになったのかな、と思いました。
今までは現実から目を背け、ただ流れていく時間の流れに身を任せて、生きているだけでした。
でも今は、未来で待ってる千昭に会うために、将来の目標も見つかり、ただ流れる時間に身を任せるのではなく、自分から、自分の将来に向かって生きていこうと思うようになったわけです。
ここで初めて、真琴は時を「かける」少女になったというわけですな。
まぁ、ストーリーの設定上普通に考えれば、千昭と真琴はもう一生会えないと僕は思っているのですが、それを理詰めしてしまうと、友達が減りそうなので、今回はやめておきます。
みなさんはどうですか?いつまでもポンコツな高校生ですか?
僕はおそらくまだ中学生です。
タイムリープのしすぎで。