かくほーログ

見た感じ、そのまんま

SNSに写真や動画を投稿する文化は

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謎である。極めて謎めいている。

何が謎なのかというと、その奇行すべてについてである。

 

現代の我々は、何かに憑りつかたように、何かの衝動に駆られているかのように、何かのイベントがあるごとに、写真やインスタグラムの動画の投稿を気が狂ったように行う。何か目に見えない邪悪な力が働いているかのようにも思える。

 

これはかつて1973年に起こった、オイルショックにより、全国民がトイレットペーパーを買わなければという衝動に駆られていたものと似ている。ちなみに僕はその年代はまだ生まれてはいない。

 

そしてその衝動に駆られているのは十中八九、女子高生、女子大生である。またこの女子高生、女子大生という定義の中には、女子高生、女子大生っぽい男子高校生、男子大学生も含まれている。

そしてそれには僕も含まれている。なぜ自分が写真を投稿するようになったのか、動画を投稿してしまうのか、いつからそのような行動を取るようになったのかは、謎である。

 

このBlogは幸か不幸か、1日の閲覧数は200弱であるため、おそらく今回の記事を投稿するにあたって、道端で女子高生、女子大生から恨みを買い、道端で刺される可能性は低いと考える。

 

しかしながら少ないとは言えど、万が一間違えて刺されてしまう場合もあるため、一応念のために断っておきたいが、これはSNSに写真、動画を投稿している人物をディスっているわけではないのである。誤解しないでいただきたい。

 

そもそも僕が人をディスるような、蔑むような記事を投稿したことがあるだろうか。と自分に問いたい。答えはYesかもしれない。

 

自分でも少なからずSNSに動画や写真を投稿している身ではあるが、この奇行について色々考えてみました。

 

 

 

〇写真を撮ることについての疑問

 

これは常日頃思っていたことだが、写真を撮るという行為はもともとどんな行動なのだろうか、と考えたことがある。

そのきっかけは、よく自分は旅行などに行く際に、写真を撮っていたのだが、自分が写真を撮ることに夢中になっていて、ほとんど写真を撮っている瞬間の「ページ」しか記憶に残っていないことである。写真を撮るだけで満足してしまっていて、自分の記憶に残すことに集中出来ていないのである。

僕がADHDか軽度のアスペルガー症候群で、写真を撮ることにしか集中できないという可能性は無くはないが、そうでないならこの写真を撮る行為は間違っているのかもしれない、旅行している意味がないかもしれないと思ったのである。

 

写真を見返せば、その瞬間のページを思い出すことはできても、その写真に移っていない時間、空間は思い出せないのである。

 

そして悲しいことに、その写真すら結局いつになっても見返さないのである。

現代はスマホのような便利なもので、簡単に動画や写真を撮ることができるが、そのため手軽に、なんでもかんでも写真を撮るようになり、それが惰性となっているのである。

それから僕は基本的に自分の目で見て自分の記憶に残すことを優先している。

 

僕は京都に住んでいるのだが、祇園祭や花火大会などのイベントに行くとよく、肉眼ではなく、スマホのカメラ越しでそのイベントを見ている人が多いことに気が付く。祇園祭では、何だかよくわからない、柱のようなものを一生懸命カメラに抑えようとしている。

 

何のために撮っているのだろう。どうせ見返さないだろうに。といつも思っている。スマホの中に写真が溜まっていき、スマホの寿命が訪れ、気が付いたらデータ破損しているのがオチである。

そして10年後、思い出せるのは、祇園祭へ行ったという事実や、花火の動画を撮ったという行為の事実のみである。祇園祭の匂いや、花火の色など覚えているはずがない。

 

 

 

〇写真の意義は

 

これも個人的な意見だが、じゃぁ写真はどんなものが好まれるのだろうかという話。

写真は、撮る側が撮られる側もしくは、写真を見る側(第三者)の見えない世界を見せてあげることが、役割なのかなと、そう考えた。

 

例えば、運動会や何かのスポーツの大会では、カメラマンがいるが、彼らは「運動会なう」SNSに挙げるために自撮りをするはずがないのである。一生懸命に何かをしている人や、それを含む風景を他の人にも共有するために撮っているのだと思う。

 

旅行も、カメラ目線の写真よりも、取られる側が写真を撮られていることに気が付きいていない時にシャッターを押された時の写真をもらう方が、写真っぽく見える、と僕は思う。特に根拠はない。ただの価値観である。

が、自分が見えていない世界を見ることが出来た気がして、ちょっとお得な気がするのだ。

 

僕も写真を撮るのはBlogで紹介するときなどに使いたい、という名目で、自分を正当化するために撮っている、と思っている。

 

 

 

SNSに上げる動画や写真は

 

彼女らは何のために写真や動画を挙げるのであろうか。特に最近のインスタグラム(以下インスタ)の台頭により、その疑問は大きくなる。

 

特にインスタのストーリーである。あれは使用している端末にはその動画は(確か)保存されない。インスタというアプリには保存されるが、その動画を端末に保存することはできないはずである。

少なくともユーザーが自身のためのアルバムにするのには少し不便である。できなくもないし、「アルバムとして使っている」と言い張られたら何も言えないところであるが、やはり不合理である。

 

何のために写真や動画を投稿しているのか。

それは十中八九、「自慢」なのである。

少なくとも僕はそうである。美味しいフレンチのレストランでの料理の写真はいわゆる飯テロ。

友達と楽しく飲み会をしている動画をあげるのは、今、充実している時間を知らしめたいのである。

美味しいものを食っていることを羨んでほしいのである。自己承認欲求が強いのである。自己承認欲求がないなら、こんなBlogをそもそも運営していない。

 

誰が何と言おうと、大体のインスタグラマーは、そうなのである。

「そうじゃない」と言い張っても、そうなのである。

カメラマンでもなければ、ブロガーでもない。何かの広告でもない。

日記なら日記に書けばいい。自分だけ見るための、非公開のBlogだって現代は簡単にできる。そしてその投稿を閲覧しているのは概ね、身内レベルの界隈なのだ。

 

もっと言えば知らない人でもいいのだ。自分がこんな経験をしているというアピールをしたいのだ。

 

この状況で、自慢以外の理由で投稿しているという、且つ理にかなった理由を思いつける人は天才である。人間国宝に認定しよう。

 

この状況はちょっと背伸びしてフレンチレストランに来て、メニューに載っていないカクテルを注文する、にわか女子に似ている。

「アンダルシアン・サンセットって作れます?」

と言ってくる奴だ。Barに行け。

 

メス「シェリー酒があるから、作れると思っったんですけど。このシェリーはどんなものですか?」

僕「スペインの白ワインです。」

メス「あ、じゃぁ違うやつですね。」

 

スペイン産の白ワイン以外のシェリー」は、僕はコナンに出て来る、灰原哀こと宮野志保のコードネームくらいしか知らない。まさかそのシェリーのことではないだろう。

 

つまり彼女はアンダルシアン・サンセットなど、もとから何なのか知らないのである。その名前を知っていることを僕に見せつけるだけで目的は達成されている。これは先に紹介した写真を撮ってSNSに投稿する目的を達成しただけで満足し、内容はだんだん忘れていく原理と似ている。

彼女はアンダルシアン・サンセットをどうしても飲みたいわけでもなく、飲まなければ死ぬというわけでもないのに、わざわざ、メニューにないのも知っていて聞いてきたからである。

 

 

 

 

 

 

こんな言い方をすれば、本当にいつか刺されるかもしれないから、もう一度言うが、ディスっているわけではない。いやありません。許してください。

 

本当に言いたいことは、このよくわからない奇行は、奇行であるのに、行ってしまう事である。何か強い力が働いているとしか思えない。

よくよく考えれば、意味わからんなーと思いながらも、僕はこれからイタリアンレストランのバイトに行き、そのまかないのパスタの写真をSNSに投稿してしまうのだから。

 

 

 

 

 

 

口調変えてみた。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

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